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大阪高等裁判所 昭和41年(う)1102号 判決

被告人 呉勝己

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は大阪区検察庁上席検察官波山正作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人真鍋正一作成の答弁書記載のとおりであるからこれらを引用する。

検察官の所論は、原判決は本件公訴事実に対し、「被告人は昭和四〇年五月二九日午後二時三〇分頃普通貨物自動車(大四る二七-六九号)を運転し、西進して大阪市天王寺区上本町五丁目一番地先の交通整理の行われていない交差点中央付近を直進しようとしたところ、同交差点の北行車道を南から北へ続いて進行して来た普通乗用車二台を認めたので、同交差点中央北行電車軌道敷内に一時停車し、その乗用車二台が自車の前を通過してから発進し、時速七、八キロメートルで西進したが、同交差点の北行車道を南から北へ見上勲が軽二輪自動車を運転して被告人の進路を横断しようとして接近して来たので、直ちに急停車の措置を講じたが見上勲の車が被告人の車の前部中央付近に接触し、見上が路上に転倒した」と説示し、その為見上が加療約三ケ月を要する右膝及び下腿挫傷等の傷害を蒙つたことを認めた上、本件は「被害者見上が、自己の前方約一五、六メートルの交差点中央北行電車軌道敷内に先行する乗用車二台の通過を待つて西進しようとする態勢で、被告人の貨物自動車が停車しているのを認めたのに、そのまま停車を維持してくれるものと速断し、かつ、これに進路を譲るべき道路交通法上の義務に違反してそのままの時速三五キロメートルないし四〇キロメートルで同交差点に突入したため、前記傷害を受けたものというのほかなく被告人に業務上義務違反の事実は認め得べくもない」として、無罪の言渡をしたのは、明らかに事実を誤認し、かつ、刑法二一一条所定の業務上過矢致死傷罪における「注意義務」についての解釈を誤つたものである、というのである。

よつて調査するに、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、見上勲の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、司法警察員の実況見分調書を総合すると、本件交通事故発生の現場は、大阪市天王寺区上本町五丁目一番地先の市道上本町線と上本町五丁目道路とが交差する交通整理の行われていない十字路交差点であるところ、被告人は普通貨物自動車を運転して右上本町五丁目道路を西進し、右交差点を直進しようとして交差点手前で一旦停車したのち、南行車両の途切れるのを待つて交差点内に進入した際、市道上本町線を南方から右交差点に向つて北進して来る二台の普通乗用自動車を認めたので、これを通過させる為交差点中央より稍々西寄りの北行市電軌道敷内で、車首を同軌道敷から僅かにはみ出して一時停車したが、さらに右乗用車の後から約一五メートル離れて交差点に向つて北進して来る被害者運転の軽二輪自動車を左方約一五、六メートル地点に認めたこと、しかし被告人としては右の如くすでに交差点中央より西方を殆んど渡り切る地点にまで進入しており、又同交差点西方から稍々車首を交差点に入れて東進の態勢で軽四輪自動車が一台停車していたので、被害者が徐行あるいは一時停車して自車の通過を待つてくれるものと考え、その先行の前記乗用車が通過したのち直ちに時速約七、八キロメートルで発進進行をはじめたところ、意外にも被害者がその侭北進して来るのを認め、あわてて急停車の措置をとつたが及ばず自車左前部に被害者の自動車が衝突するに至つたこと、一方被害者は前記市道上本町線を時速約三五キロメートルないし四〇キロメートルで北進し右交差点手前にさしかかつた際、その稍々右斜前方約一五メートル余の地点の前記市電軌道敷内に被告人運転の自動車が西進の態勢で一時停車しているのを認めたが、被告人の方で先行の乗用車同様なお自車の通過を待つてくれるものと軽信し、その動静に注意を払わず、道路交通法上の交差点における通行順位をも無視して先行の乗用車に続いて従前の速度の侭北進し交差点内に進入し、被告人の自動車が発進進行しているのをその手前三、四メートルに迫つてはじめて気付き、あわててハンドルを左に切るとともに急停車の措置をとつたが及ばず前記の如く衝突したことが認められる。検察官は原判決は被告人は自動車発進後被害者の自動車をはじめてこれに気付いた旨認定したのは事実誤認であると主張するけれども、原判決はその措辞稍々簡略ではあるが必ずしも所論の如き認定をしているわけではないことは判文上明らかであり、むしろさきの認定と同趣旨の認定をしていると認められないこともないのであつてこの点の所論は採るを得ない。ところで前記認定の状況下において、被告人が乗用車二台を通過させてのち、さらに後続の被害者の自動車の通過を待たないで自車を発進進行させた点に検察官所論の如き業務上の注意義務懈怠があるか否かを検討するに、さきに認定した如く被告人が乗用車二台の通過を待つて本件交差点を西進しようとした際、被告人の自動車はすでに交差点内に進入し、その中央より稍々西方の地点に迄進出しており、更に僅に四メートル余進行すれば交差点を渡り切るほどの状態であつたのに対し、被害者はその南方一五メートル余の地点を北進中で、未だ交差点にも入つていなかつたのであるから、道路交通法三五条一項の規定により明らかな如く、被告人に優先通行権があるのは勿論であり、右状況からしても、被害者は特別の事情のない限り交差点における先行順位を守り、徐行ないしは一時停車等をして被告人の自動車の通過を待つて進行すべきである、又そうするものと被告人が考えたのは無理からぬところである。この場合もし被害者において右の先行順位を守り被告人の通過を待つて交差点に入つておつたならば、十分本件事故の惹起を防止できたものと考えられる。しかるに、被害者はその先行車が無事被告人の自動車の前を通過したのを見て、その間の距離間隔を考えず、又なお被告人が自車に進路を譲つてくれるものとのみ軽信し、交差点における先行順位をも全く無視し、かつ、被告人の自動車の動静にも注意を払わず、ただ交差点に入つて東進の態勢で停車していた前記自動車にのみ注意を払い、被告人の進路を横切つて交差点を直進しようとした為、被告人の自動車が発進したことにも気付かずその三、四メートル手前ではじめてこれに気付き、あわててハンドルを左に切ると共に急停車の措置を採つたが及ばず、本件衝突事故を惹起するに至つたものであつて、本件事故はむしろ被害者において交通法規を無視し、かつ前方注視を怠り、被告人の自動車の動静に注意を払わなかつた為に発生するに至つたものというべきである。検察官は、所論の判例を引用して、自動車運転者たるものは如何なる場合においても、他との衝突を避けるにつきそのなし得る最善の措置を講ずべき業務上の注意義務があるのであつて、仮令道路交通法上先行順位にある者でもそのことの故に運転上必要な注意義務を免除されるものではない、したがつて交通法規を無視する車両との衝突を避けるため適宜の措置をとり事故を未然に防止する業務上の注意義務がある、本件の場合被害者が交通法規を無視して交差点に進入して来たとしても自動車運転者として通常予見し得る事柄であるから、その動静に細心の注意を払い、安全を確認して発進すべき業務上の注意義務があると主張するけれども、本件はさきに認定した如き事情であるから被告人としてはさきに認定した如く被害者が交通法規を守り当然自己に進路を譲つてくれるであろうことを信頼して発進することは無理からぬところであり、被害者が交通法規を無視して交差点に進入することを予見して、その動静に注意を払い、その通過を待つてのち発進進行すべき業務上の注意義務までがあるとは解することはできない。しかも被告人は自車を発進させる際、被害者の車の動静を見ながら低速で進行したのであるが、同車が減速、停車の措置を採ろうとせず接近してくるので、急ぎ停車の処置をとつたが及ばなかつたのであつて、被告人には何ら責められるべき業務上の注意義務の懈怠は認められない。もつとも被告人は司法警察員に対しし、「見上さん(被害者)の単車の北進してくるのを発見したあともう少し安全かどうかをよく見極めて進行したらよかつたと考える」旨自己の過失を認めるが如き趣旨の供述(被告人の司法警察員に対する供述調書)をしているけれどもこれは同供述中にもある如く単に事故後の感想を述べたに止まり右供述を以て被告人の過失を認めることはできない。

その他検察官の所論にかんがみ記録を精査し、かつ当審における事実調べの結果によつても右認定を覆えし本件事故が所論の如く被告人の過失にもとづくことを認めるに足る証拠はない。されば右と同趣旨により被告人に対し無罪の言渡しをした原判決は相当であつて、原判決には所論の如き事実誤認ないし注意義務の解釈を誤つた違法はない。論旨は理由がない。

よつて刑事訴訟法三九六条、一八一条三項により主文のとおり判決する。

(裁判官 山田近之助 瓦谷末雄 岡本健)

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